適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

2000年の長嶋茂雄とサザンオールスターズ

「ハンカチを振り振りあの人が引退(さ)るのを立ち喰いそば屋のテレビが映してた…」

 

プロ野球史においてあまりにも有名な長嶋茂雄引退セレモニーのシーンを歌ったこの曲は、2013年、当時5年ぶりに活動を再開したサザンオールスターズの「栄光の男」である。

桑田佳祐国民栄誉賞を受賞した長嶋から影響を受け作った曲である。そんな長嶋とサザンの2000年に焦点を当ててみたいと思う

 

20世紀の最後の年、俗に言う世紀末、2000年の長嶋(プロ野球)と桑田(サザン)と言えば、やはりONシリーズと呼ばれた日本シリーズ、サザンならば「TSUNAMI」の大ヒットからの桑田佳祐の故郷で行なわれた茅ヶ崎ライブという出来事が大きなトピックスであるのは間違いないであろう。この2つの出来事はファンにとってまさに世紀末最後の祭りといえる。

 

当時のサザンと長嶋が監督を務めていた読売ジャイアンツは少し似たような歩みをしており、4年前の1996年にサザンはシングル「愛の言霊~Spiritual Message~」とアルバム「Young Love」の大ヒット後、98年にベストアルバム「海のYeah!!」は大きな売り上げを残したものの97~99年まではシングル・アルバム共に売り上げが伸びず悩む時期が続いていた。一方でジャイアンツも96年に最大11.5ゲーム差を逆転した「メークドラマ」でリーグ優勝を飾ったものの日本一は逃し、翌97年にはBクラスの4位という結果に終わった。98,99年もAクラス(3位、2位)こそ維持するものの優勝は逃しており、98年には長嶋の監督退任の報道も流れるなど、安定しない時代であった。

 

そのような状況の中1999年に翌年へと続く変化が始まる。98年には20周年ライブを日本の中心である渚園で行い、99年の初のドームツアーこそ成功を収めてはいたが依然CDの売り上げは伸びなかった。そんな中9月にファンクラブ限定のシークレットライブを行った。そこで桑田曰く「刺激を受けた」とのことであり、その流れでとある曲が生まれ、2000年という世紀末を駆け抜けていくことになる…。

 

ジャイアンツも3年連続で優勝を逃してしまった。当時3年連続で優勝を逃すというのは球団のワースト記録であった。現在では4年連続が記録となっているが、1人の監督で3年間優勝が出来なかったのは、長嶋(第1次監督の時を含め2度)と王貞治の2人だけである。

特にこの時代のジャイアンツといえば毎年のように大金を使い補強に乗り出すのが恒例行事のようになっていたが、この年のオフも大補強を行っている。

主な選手としては、FAで前ホークスの工藤公康、前カープ江藤智、外国人で前阪神ダレル・メイ、ドラフトでは1位に高橋尚成を指名し獲得するなどチームのウィークポイントであった先発左腕、三塁手の穴を埋める大補強を行ない、翌年の優勝へ向けた動きを進めていた。

また、新入団した江藤がカープ時代に付けていた背番号「33」は長嶋が付けていたこともあり、長嶋が「33」を江藤に譲り新たな背番号を付けることになる。(余談であるが、江藤自身は背中がスマートに見えることから1度1桁の背番号を付けてみたいと考えており、もし仮に背番号を変えるなら移籍の時が唯一のチャンスだと思っていたが、長嶋から直接「33」を譲ると言われたら断れない、と後に語っている。)

 

2000年、新年早々に両者は大きな話題を集めることになる。シングル「TSUNAMI」の大ヒットと長嶋茂雄背番号「3」の復活である。

前年、FAとなった江藤智を獲得する際、自らの背番号33を譲り、現役時代に背負っていた所謂、「栄光の背番号3」(OB戦等を除けば)を26年ぶりに付けるとあり、キャンプには連日ファン・マスコミが押し寄せた。しかし長嶋はすぐに「3」を見せることなくジャンパーを着て封印し続けた。その時はようやく2月12日になりやってきた。

長嶋がジャンパーのジッパーに手をやり、脱ぐまでの悲鳴のような大歓声とフラッシュを覚えている人は多いだろう。

そんな背番号「3」の復活が報道されている中、とある曲が大ヒットを記録しつつあった。サザンオールスターズが1月26日に発売し、後に300万枚近くの売り上げを記録することになるシングル「TSUNAMI」である。

前年に行われたライブから「刺激を受けて」作成された曲である。

このTSUNAMIの大ヒットと茅ヶ崎ライブの成功がサザンを国民的バンドと言われるのに決定的な影響を与えることになる。

 

「3」という背番号…。「栄光の男」でも歌われている長嶋茂雄引退試合でのセレモニーの中でも電光掲示板に「ミスターG 栄光の背番号3」と映し出されていたように、「3」というのは栄光に彩られた現役時代のスーパースター長嶋茂雄を象徴する数字である。

監督としての長嶋は背番号に「90」(75~80年)、「33」(93~99年)を付けていたが、この2つの背番号は人間長嶋・中間管理職長嶋の象徴のようなものになってしまった感がある。特に最初の監督時代は、主力選手の高齢化、球団初の最下位、空白の一日江川事件)と華やかに彩られていた選手時代とは別の、監督として時に苦悩を覗かせるような問題と立ち向かうことになった。同時に監督としてカンピューターと揶揄された采配や様々な発言により(これに関しては現役時代からではあるが)所謂天然の人という現役時代のある種神格化された存在から愛すべき陽気なおじさんというキャラクターが定着した番号と(実際最初の監督になった頃の野球漫画ではそのようなキャラクターの変化が見られる)言えるのではないのだろうか。

 

そのような中での「3」の復活…もちろん長嶋自身の意思もあったと思われるが同時にどこか読売の「都合」というのも見えてしまうところがある。

 

あの長嶋巨人時代の大補強というのは、もちろんチーム力のアップ、敵チームの戦力ダウンという要素はもちろんあるのだが、読売グループによる長嶋茂雄という存在を守りそれと同時に読売グループを守るためのものだった、と思える面もある(のちに長嶋自身はこの毎年の補強について、チームに刺激を与えなければなれ合いが生まれるため、チーム内に緊張感を創り、競争を煽りたかったと語っている)。

少し時は戻るが長嶋の最初の監督時代(75~80年)6年間で2度リーグ優勝は果たしたものの日本一にはなれず、監督長嶋の采配にも疑問視が付き、辞任という名の解任となっている。

この時一人の監督を解任しただけで読売新聞は部数を大きく落としてしまうのである(一説には数十万部とも言われている)。

1975年監督1年目の長嶋は全く勝つことが出来なかった。全球団に負け越し球団初にして唯一の最下位という結果となる。しかし毎日球場にファンはやってきた。当時後楽園球場の過去最高の動員数を記録したのだという。

長嶋の復帰は92年オフ、翌年にJリーグのスタートを控えていたこともありプロ野球人気への影響が囁かれていた時期であった。しかしサッカーというスポーツに長嶋茂雄という1人の人物で対抗しようとしていたところに根強い長嶋人気とそれに頼り切りの球界(というより読売と言えるだろうか)の都合が見えてしまうのだが…。

前置きが長くなってしまったが、そんなタイミングでの背番号「3」はファンに栄光の背番号をもう一度見せようというファンサービスというところや興行としての面もあったと思うが、同時に自らの退路を断つという覚悟もあったのかもしれない。何故なら長嶋茂雄と背番号「3」というのは、完全にイコールで繋がっていたものである。プロ野球のイメージを変えたと言われ、ここで打って欲しいという場面で必ずと言って良いほど快打を飛ばした神格化された存在の象徴のようなものであった、正に栄光の背番号だったのである。だから監督として付けた「90」「33」はどこか人間長嶋茂雄・中間管理職長嶋茂雄という番号になってしまっていたのではないのだろうか。

だからその背番号3を復活させるというのは極論すれば「神」を再び背負うことになるのである。そこで結果が出なければ、長嶋と言えどこれ以上「3」を背負うことは許されない…そう思わせてしまうような魔性の番号なのである。

 

2000年、新年早々の1月26日にあるシングルCDが発売された。

サザンオールスターズの「TSUNAMI」である。これがまた爆発的に売れてしまったのである。前年までのシングル売り上げの低迷から脱却した起死回生のCDとなった。

夏のイメージが強いサザンであるが1月に発売されたCDには「起死回生」「復活」という言葉が合うような作品が偶然にも名を連ねているのである。82年の1月に発売となった「チャコの海岸物語」はアルバムこそ売れていたが、シングルの売り上げは低迷していた80~81年からの脱却となった(こうして見るとTSUNAMIのヒットの流れはチャコをなぞっているように見える)。そして90年の1月にはアルバム「Southern All Stars」がリリースされたが、これは前回の「KAMAKURA」から活動休止期間を挟み5年ぶりのオリジナルアルバムとなった。バンド名をそのままアルバム名にしており「復活」を意識しているように見える。…というように共通点が見えるのは偶然だろうか。

 

その「TSUNAMI」がヒットチャートを賑わせている中で、とある活動が行なわれていた。1999年末に行なわれた年越しライブで桑田から「今年(年明け後の発言)の夏は海が見えるところでライブがしたい」という発言があったのである。またそこで茅ヶ崎を示唆する発言もあったため、翌年(2000年)故郷への凱旋ライブが実現するのか…?という期待があったとも思われるが、こういった発言は桑田にとってよくあることなので、そこまでの空気は無かったのではないだろうか。

しかし年が明け発売された「TSUNAMI」は売れに売れた。サザンにとって最大のBIG WAVEがやって来たのである。最初にその波に乗ったのは、サザンでは無く、そのファンであったのではと言えるのかも知れない。

ライブの開催に向け、茅ヶ崎市民のグループが署名運動を始めたのである。最終的に約5万人の署名を集めライブの開催決定となった。

結果的にボランティアによる交通整備やゴミ拾いが行なわれるなど、ファン・市民が主体となったライブとなったのである。ファン・市民もまたオールスターズであり、世紀末とTSUNAMIの大ヒットの波に巻き込まれてしまったのかもしれない。

 

共に「20世紀最後の宴」への準備が着々と進んでいた。

ジャイアンツは満塁ホームランからサヨナラホームランの連発という劇的な形でリーグ優勝を決め、パリーグではONのOである王貞治が監督を務める福岡ダイエー(現ソフトバンク)ホークスが前年に続き優勝した。これにより日本シリーズジャイアンツ対ホークスの組み合わせとなり、かつてのチームメイトでON砲と呼ばれたコンビが監督として相まみえるという往年のONファン、というよりプロ野球ファンが最も見たかった「監督」の対決だったのではないだろうか。

サザンも茅ヶ崎でのライブ開催が正式に決定後ライブに向け、ライブ開催1ヶ月前に7月に新曲「HOTEL PACIFIC」を発売、ライブを念頭に置いた曲であるためか、歌詞に「茅ヶ崎」という地名が入る曲はデビュー曲の「勝手にシンドバッド」、桑田自身が初めて作った曲といわれファーストアルバムにも収録されている「茅ヶ崎に背を向けて」以来、実に22年ぶりとなった(提供曲は除く)。

 

斯くして2つの宴は開催されたのである。結果から言えば、日本シリーズは4勝2敗で、ジャイアンツが6年ぶりの日本一となり、茅ヶ崎ライブは公演時間約4時間、演奏曲数は当時最多タイとなる36曲のセットリストで2日間行なった。

とはいえ、当然監督だけでは試合にはならず、ライブには曲が無ければならない。これもまたその場に相応しい選手・曲が揃っていたのである。

主なメンバーを上げてみると、ジャイアンツには松井秀喜清原和博高橋由伸桑田真澄工藤公康上原浩治、ホークスには小久保裕紀松中信彦城島健司井口資仁秋山幸二…とMVPや沢村賞のタイトル獲得者、後の三冠王、メジャーリーガー、監督経験者というそのままオールスター・日本代表となってもおかしくない選手がスタメンに名を連ね、控えにも左殺しの代打の切り札(この頃はまだ代打1本では無かったが)大道典良や守備の名手でバントの神様川相昌弘など玄人好みな選手が脇を固めるなど、球界を代表する「O」と「N」の雌雄を決する戦いに相応しい豪華メンバーだったのである。

茅ヶ崎ライブで演奏された曲も、勝手にシンドバッドいとしのエリーチャコの海岸物語涙のキッス愛の言霊~Spiritual Massage~・真夏の果実TSUNAMIといったヒットシングルや、希望の轍・マチルダBABY・マンピーのG★SPOTなどのライブ定番曲、そしてファンの間では隠れた名曲と言われている、ラチエン通りのシスター・冷たい夏という曲が顔を揃え、有名どころの曲が多く、恐らくはライブ開催までの恩返しやTSUNAMIから入った新しいファンを念頭に置いたベストアルバム的な当時考えられる最も「分かりやすい」と言える選曲だったのではないだろうか。

 

さてこの日本シリーズであるが、当事者となったOとNの心境は周囲の盛り上がりとは、少し違う物があったようだ。後に雑誌の企画で長嶋はこのシリーズについて、「正直いってやりづらかった」と述べている。長嶋にとって王は戦友であり、勝負の世界であるため勝たないと行けないがそれが辛かった、と振り返っている。王も長嶋の発言に同意しつつも選手やファンの気持ちを考えると、巨人に勝って日本一にさせたい、と答えている。またこう付け加えている。「もう一度対戦し、対戦成績を1勝1敗にしておきたいという気持ちもあるのも事実(笑い)」と。これは恐らく本音では無いだろうか。結果的には翌年両チームとも優勝を逃し、長嶋は監督の座から退いた。もしもであるが、ONシリーズに2度目があれば王が勝ったのでは無いだろうか。これは2人の現役時代と被らせてみると長嶋の後を追い、王は最終的には成績面では長嶋を圧倒しているが、人気面では長嶋には及ばなかった。単純に「成績」だけを見れば、王は長嶋の上を行くのである。しかしこの結果的にたった1度きりの日本一決定戦となってしまえば長嶋が勝ってしまうのである。もう長嶋茂雄というのは言葉では説明できないそういう星の下に生まれているのである。

 

桑田佳祐茅ヶ崎ライブには、今までとは違うプレッシャーがあったのでは無いのだろうか。

ライブ前に発売された「HOTEL PACIFIC」であるが、制作時から曲のアレンジについて随分悩んでおり、CD版の完成後も手直しを行なっていたという。桑田自身このレコーディング中何度か口にしていたという言葉がある。「茅ヶ崎のステージの上、みんなの前でこの曲を演奏している絵をイメージするとさ…」。

桑田曰くこの曲の完成版は茅ヶ崎ライブで疲労することが出来たとのことである。

このライブ以降も茅ヶ崎江ノ島、エボシ岩とサザン的名所が歌詞の中に顔を出し、ファンも踊れる振り付き曲としてライブの定番の1つとなったのである。

このライブから数年後、2006年に行なわれたとあるインタビューでこのようなことを話していた。「(友人や芸能関係者と吞みにいた際にギターがありサザンを歌ってと言われても)サザンは絶対に歌わなかったんですよ。こう見えてイヤでね、そういうのが。それは“サザンの桑田”っていうのは世を忍ぶ仮の姿で、本当の僕は違う姿なんだっていう気持ちが強かったからなんですよ…」。この意識が最も強かったのが、「7年くらい前かな」。ちょうど茅ヶ崎ライブの前に当たる。この茅ヶ崎ライブにおいてはその「世を忍ぶ仮の姿」と「本当の姿」が何処か曖昧になっていたのでは無いだろうか。シングル「HOTEL PACIFIC」、ライブの選曲・演出は「サザンの桑田」として出来るファンや茅ヶ崎市民への恩返しであったと言えるが、本番のステージ上ではどうだっただろうか。故郷である茅ヶ崎でのライブであったが、桑田自身予想しなかった位大きな物となってしまいある種のやりづらさがあったのでは無いのだろうか。ライブ開催までの経緯、地元凱旋という今までに無かった物が重なったこともあり、「サザンの桑田」に徹することが出来ず、「本当の姿」が見え隠れしていたのかもしれない。どこか映像を見てみると「サザンの桑田」を維持するためか、堅さを感じてしまうのである。またこのライブ後にメンバーの1人ギターの大森隆志が休養に入り、翌年脱退という流れがあった。今にして思うとこのライブの時には6人ではこれが最後と言うことを、どこかで感じていたのでは無いのだろうか。これも堅いと思った要因の1つかも知れない。

この茅ヶ崎ライブ以降桑田の作る歌詞に「茅ヶ崎」という言葉が入る曲が何曲か発表されている。またサザンでは無く、ソロではあるがテレビの企画で茅ヶ崎の海の家でライブを行なったり、アルバムの先行試聴会の最終日を茅ヶ崎とするなど、かつてよりも茅ヶ崎との距離がぐっと近付いていったのでは無いのだろうか。

 

この翌2001年、ジャイアンツ・ホークスともに優勝を逃し、長嶋は監督勇退を発表した。また前記したが、サザンのギタリスト大森が前年末の休養のからサザンからの独立、脱退が発表された。これにより、ONシリーズはこれが最初で最後のシリーズとなり、サザンもデビュー時のオリジナルメンバーでのライブは茅ヶ崎ライブが最後となってしまった。

その後、2004年にプロ野球は球団合併・1リーグ構想という球界再編が起こり、サザンは2008年にバンドとして無期限活動休止を発表した。過去を振り返れば、大小問わず様々な出来事があったが、この2つの年は句読点を打つような世間を巻き込んでしまう非常に大きな物であった。

こうして見ると2000年の出来事というのはプロ野球サザンオールスターズにとって、20世紀最後の祭であったのと同時に、昭和の終わりと言えるのでは無いか。

同時に球界再編・無期限活動休止というのは、この2000年からカウントが始まった必然の物だったのかも知れない。しばらくは昭和という名の亡霊と両者は戦っていたのでは無いのだろうか。この2つを乗り越えて、ようやく平成が始まった、とは言い過ぎだろうか。

 

そして無事に両者が「平成」を迎えることが出来た2013年、長嶋(と松井秀喜)に国民栄誉賞を受賞した。またこの年サザンは5年ぶりの活動再開が発表された。

2000年の日本一を決めた本拠地東京ドームで国民栄誉賞の授与を受けた長嶋、また桑田も2000年以来となった茅ヶ崎公園野球場で行なったライブでのステージ上で市民栄誉賞の授与を受けるなど両者は再び同じ年に大きな出来事が重なったのである。

やはり栄光の男と呼ばれるような男達にはこのような巡り合わせが起こってしまう物なのだろうか…。

 

 

2016年8月に野球が2020年に行なわれる東京オリンピックの追加種目として採用された、と発表された。そんな中ふと何気なく観たニュースで長嶋茂雄をその東京五輪野球で総監督にという案も、とあった。時を同じくして開会式で歌って欲しい歌手というアンケートがテレビやネットでいくつか行なわれていたが、サザンオールスターズは常に上位で名を連ねていた。「国民的」という看板を得てしまった両者であるがゆえ、日本の一大イベントといえる自国開催のオリンピックに名前が出てくるのも(スポンサー等の兼ね合いなどがあるにせよ)、当然と言えるかも知れないが、2020年にサザンはデビュー42年目の年となり、リーダーの桑田佳祐も64歳、長嶋茂雄に至っては84歳という年齢になる年である。

また天皇陛下の退位により近く「平成」という時代が終わるという報道もあった。「国民的」という言葉が死語に近付いているこの時代の後に新たな「栄光の男」は現れるのだろうか。

いや、桑田佳祐自身が「栄光の男」の中でもうこのように歌っているではないか。

「生まれ変わってみても 栄光の男にゃなれない 鬼が行き交う世間 渡り切るのが精一杯…」

 

 

長めのあとがきのようなもの

はい、以上でございます。ここからはいつも通りの私(?)です。

愚痴と言い訳中心なので、お気を付けて(?)(ここからは特に読まなくても大丈夫です(?))。

野球とサザンが好きな私としましては、ずっとこの好きな物をうまく合わせた(ちゃんと溶け込めているのかは何ともですが…)雑文に1度は挑戦したいと思っていまして今回ようやく実現することが出来ました。

別に気にされる方はいないかと思われますが、今回はですます調で無いのは、最初はですます調で書いていたのですが、書いている内に個人的に違和感があったのでこうなりました(つまり特に意味は無いのです。敬称略も同じような理由です)。

2000年の云々とタイトルにしておきながら、茅ヶ崎ライブ後のシングル「この青い空、みどり ~BLUE IN GREEN~」と年越しライブ「ゴン太君のつどい」のことを書いていないのは、タイトルを最後まで「2000年のONシリーズと茅ヶ崎ライブ」と悩んだ名残だと思ってください(?)。

「では無いか…」的なものが多いのは申し訳ありません。フィクション物と思って呼んでいただければ幸いです…。

多分次からはいつも通りゆるいテーマになりますのでご安心を(?)。

それでは長文失礼致しました。