適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

大正時代にフォークボールを投げた2人の日本人

のっけからどうでもいい話なのですけど私、変化球ですとフォークボールが好きなのですよね…。そうしますと必然的にフォークを武器にしている所謂フォークボーラーには注目してしまうわけで…。

そんなの中(?)フォークの神様杉下茂よりも20年以上前にフォークを投げた投手がいた…?しかも2人も…?と気になる情報を見つけてしまったのでとりあえず引っ張り出してみました…が雑にしか書けないもので、タイトルほどの情報が得られるかは何とも言えませんがそこはどうかお許しを…。

 

時は1922年(大正11年)、ハーバード・ハンターがメジャーリーグ選抜チームを率いて来日しました。ハンターは1920年マイナーリーグ主体の選抜チームの一員として来日し、メンバーの中で特に日本人へ熱心な指導を行なっており、翌年1921年にも慶應義塾大学の指導のため日本にやって来ており、初期の日米野球史の中で重要人物の1人ですね…とそれについて今回は置いておくとしまして、このチームには、バレット・ジョー・ブッシュとハーブ・ペノックという2人の投手が参加していました。ブッシュはフォークボールを開発した人物といわれ、ペノックもフォークを武器にしていた投手でした。余談ですが、ブッシュがフォークを開発したのはボストン・レッドソックスに在籍していた1918年頃と言われていますが、この年にはペノックも在籍しており(1915~1922年)、過去6年間で10勝以上したシーズンは1度だけでしたが、この1918年には16勝を挙げ10年連続で2桁勝利を達成することになり、ブッシュがフォークを開発した年とペノックが本格的に活躍し始めた時期が一致しており、同じ武器を持っていることから、共同開発説・先にペノックが投げ始めた説もあるとかないとか…。

さて話を戻しましょう。杉下茂フォークボールの存在を教えたのは、後に中日ドラゴンズの日本一監督となる天知俊一というのはあまりにも有名なエピソードですが、ではこの天知がフォークの存在をどこで知ったのかと言えば、1922年の選抜チームが来日した際にペノックから投げ方を見せてもらったとのこと。実は天知がフォークを教えたのはこの時が最初ではなかったのです。後に天知本人が「明治大学野球部史」に「フォークボールを初めて投げたのは杉下ではなく中川金三」という内容のことを記しているのです。天知と中川は学生時代少々複雑な経緯があり、旧制攻玉社中学から明大予科へ進学したのですが、当時大学予科への進学は、5年で卒業後もしくは4年終了時に入学試験に合格する必要があったのですが、2人は3年生からの進学だったため、中学へ戻る形で通学することになりました(ちなみに約半年大学へ通っていたとのこと…時代を感じますねえ…)。そこで下野中学(現作新学院高校)へ転校し、1年後改めて明大へ進学しましたが、この下野中学に在学中に選抜チームが来日しペノックから指導を受けたとのことですが、大和球士「真説・日本野球史 大正篇」には明大をコーチしたのは11月で(この時の試合は12-0で明大の敗戦)あるため、この時はもう下野中学野球部員であるにも関わらず、明大野球部に混ざってちゃっかりコーチを受けていたとのこと(時代を感じますねえ…(天丼))。

そしてここで教えを受けたフォークを同期だった中川に教え(本業は外野手だったとのこと)、翌1923年の春には習得し、そのフォークを武器に練習試合ではありましたが、連戦連勝だったそうで…。このまま行けば夏の甲子園(当時は「全国中等学校優勝野球大会」でしたね)の優勝も夢ではない、と機運が高まりつつありましたが、予選が始まる直前に明大から戻ってくるようにとの連絡(命令)が入り(満州への遠征があったためらしい…)、進学と言いますか、復学となりました。

もしこの時もう少し中学に残っていれば、どうなっていたのでしょうか…。少し歴史は変わっていたのかも知れません。…いやしかし、もしかしたら中川の本業が投手では無かったからこそ、天知は教えを試すことができ、そして中川がフォークを投げることが出来たという成功例を得たことにより、後の杉下茂にも伝授することが出来た、のかも知れませんね…。

 

時を同じくしてもう1人の投手がフォークボールを投げていました。早稲田大学の投手であった竹内愛一です。後にはプロ野球(職業野球と言った方がしっくりきますかね…)の監督を務めました(また余談ですが、朝日軍の新人林安夫がシーズン最多投球回の記録である541.1回の記録を残した1942年に監督だったのはこの竹内でした)。

学生野球の父と呼ばれた飛田穂洲の著書の1冊に「熱球三十年」という本がありまして、そこには「平凡な大投手、竹内愛一」という章があり、竹内について詳しく記されているのですが、その中でなんと竹内がフォークボールを投げていたという記述があるのです。

1923年、早大野球部は軽井沢で夏季練習を行なっていましたが、ここで竹内は飛田にフォークを投げて見せたのです。前年の1922年、明大と同じく、早大も選抜チームと試合を行なっており、どちらの投手から教えを受けたのか、もしくは盗んだのかは分かりませんが(本の中では「まねた」とありますのでどっちとも取れますね。ちなみに飛田はフォークについて、ブッシュの開発といわれ…と書いていますね)、この時に竹内はフォークの存在を知ったのは間違いないでしょう。早大は2試合選抜チームとの試合を行ない、1試合目はブッシュ、2試合目はペノックが勝ち投手となっていますが、その2試合目の敗戦投手は竹内だったのです。そうしますと打席にも(特別ルール等が無ければ)入るはずなので、打席の中で(投げていれば)フォークを見ているはずなので、これは…と思い、試合後にコーチを受けた…という可能性が高いのかも知れませんね。

その後フォークを習得した竹内でしたが、「肩や腕のためによくない」ということで殆ど試合で使う事はなかったとのことです。よくフォークは肩や肘に負担の掛かる球種と言われていますが、100年近く前からそれを分かっていたのですねえ…。竹内は後に奇人・変人とも呼ばれたりしますが(「熱球三十年」を読むとその時からまあ…)、投手らしい繊細さもしっかりと持ち合わせていたのかも知れません。この後早慶戦が復活しており(しかもその復活戦で先発したのが竹内)、もしこの大学時代に多投していれば、当時の六大学野球に対する熱狂も相まって一気にフォークボール全国へ広がっていたかもしれませんね。

 

と、ほぼ同時期に中川金三・竹内愛一という2人の選手がフォークボールを投げていたと言うことですが、私がたまたま知ったのがこの2人の例のみでブッシュかペノックに指導を受け、フォークを投げることが出来た投手はまだいるのでは無いのでしょうか。ここら辺をちゃんとした方(?)が調べてくれたりしませんかねえ…。フォークボールの歴史本が出たら迷うこと無く購入しますので…。ついでに個人的この野球人の本を書いて欲しいベスト3(?)に入る竹内愛一についても書いていただけると…(他力本願のくせに要望の多い愚か者)。

あとどうでも良いですが本の内容をそのまま捉えますと天知はノペックから教えを、竹内はブッシュからまねた、ということで天知(中川・杉下)はペノック型、竹内はブッシュ型のフォークを使っていたことになり、杉下によってフォークボールという球種が広がっていたと考えれば日本ではペノック型フォークが採用されたという形になったのでしょうか(?)(そもそも違いは無いと思いますけど…まあ妄想です、はい)。

…ここまで書いていてちょっと検索してみたら某知恵袋の快投で中川がフォークを投げたことについて回答している人がいましたね…。もっと先にちゃんと調べるべきでした…。

こう見ますと約30年後に杉下茂によってフォークボールの名が一気に知れ渡ったのは、ちょうど戦後に職業野球が娯楽の1つとなったことと、「打撃の神様川上哲治が打てない「魔球」として完成したことが大きいのでしょうか。杉下自身もフォークを多投する選手では無かったとのことですが、1950年代になり、ようやくフォークが時代に追いついたのかも知れませんね(?)。

そういえば杉下の某wikiですと初の本格的なフォークボーラーとされており…となっており日本で初めて投げた、となっていないのがリアルだなと思いました(どうでもいい1文で締めます)。

 

 

あとがきのようなもの

野球ゲームですと、2ストライク後は99%フォークを投げさせるというワンパターン投球をしているので、もしどこかで見つけても優しく空振りして下さい(?)。