適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

湘南と野球~茅ヶ崎の海岸を走ったジャイアンツのエース・城之内邦雄~

以下は野球とサザンオールスターズが好き、というところから都合の良い解釈を多分に混ぜた文章である。

 

かつて慶應義塾大学野球部監督を務めた前田祐吉の著書「野球と私」には、社会人野球チーム日本ビール(現サッポロビール)の監督時代のとあるエピソードが載っている。

要約すると「春のキャンプを茅ヶ崎で行い、投手陣が海岸でのランニングをしている中、城之内邦雄という選手が帰ってこず、ようやく戻ってきたときには一人江ノ島の方まで走り戻ってきた…」という話である。

このエピソードは具体的にいつの話かまでは記されていないが、城之内は1958年に日本ビールに入社、前田は1959年に日本ビール監督に就任するも、翌1960年に慶大監督に転じることになるため、1958年か1959年の出来事であろう。

さて肝心の城之内の話がまだであった。城之内邦雄は後のこの日本ビールのエースとして活躍すると複数のプロ野球チームから誘いを受け、1962年読売ジャイアンツに入団。1年目に24勝を上げ新人王を受賞するなどの活躍を見せた。宍戸錠にあやかったエースのジョーと呼ばれV9時代序盤の投手陣の中心となった。1971年に一度引退するも、1974年にロッテオリオンズで現役復帰、同年限りで正真正銘の引退となった。

…というのが主な経歴である。

城之内であるが、投手となったのは高校時代のことである。身体をねじる所謂トルネード投法からのサイドスローという投球スタイルを確立したが、後に腰を痛め現役引退の引き金になってしまったように下半身にかなり負担のかかるフォームだったと思われる。一方で大きな脚の故障は無かったことから、城之内のフォームは茅ヶ崎の浜辺で基礎が作られたものと言えるのではないのであろうか。もしかすると城之内は茅ヶ崎が産んだエースなのかも知れない(城之内の出身自体は千葉であるが)。

もう1つ、入団時にジャイアンツの他に大洋ホエールズが熱心に勧誘していたという。もしホエールズに入団していればタイプは違うが同じシュートを武器に栄光の男こと長島茂雄を苦しめた平松政次のように立ち向かう側だったのかも知れない…。

しかしその長嶋のチームメイトとなった城之内はジャイアンツのエースとなった。1950~60年の水原茂監督を支えた投手陣は衰えから晩年・引退を迎えており、頼みのエース藤田元は肩痛、60年に29勝を上げた堀本律夫が11勝に留まるなど川上哲治が監督となったこの時期は苦しい投手事情であった。その中で城之内は2リーグ以降6人目であり最後の入団5年以内で通算100勝を達成している。他の達成者は金田正一杉下茂梶本隆夫稲尾和久杉浦忠錚々たる顔ぶれである。晩年は勝ち星が伸びなかったが、1969年には4回を投げた後、勝ち投手の権利の付く5回から金田正一にマウンドを譲った試合があった。これが金田の400勝の試合となった。上記した1974年にロッテオリオンズで現役復帰をした時の監督はその金田なのである。巡り合わせとは面白いとつくづく思うのである。

1年限りの復帰となった1974年といえばサザンオールスターズの栄光の男でもその場面が描かれている長嶋引退の年でもある。華やかなしかしファンが涙した引退の影で、茅ヶ崎育ちの寡黙なエースのジョーは静かにもう一度ユニフォームを脱いだ。



…と以上でございます。何故か野球関係はこういうテンションで書いてしまいますね。

私、元々この城之内邦雄が所謂V9時代のジャイアンツの選手の中で一番好きな投手だったのですよね。リアルタイムを見たことはないけど。それが1冊の本の中で茅ヶ崎という地名と共に名前が出てきたとなればこうなります(?)。

茅ヶ崎で育ったなどいうのはあくまで私の妄想なので信じないでください(?)。文化の日に文化の欠片もない実話を元にした偏愛のフィクション駄文ということでどうかお許しを…。