適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

1978年のヤクルトスワローズとサザンオールスターズ

「ハア 踊り踊るなら チョイト東京音頭 ヨイヨイ…」

1978年10月4日、明治神宮球場は東京音頭の大合唱に包まれた。1950年に国鉄スワローズとしてスタートした、ヤクルトスワローズが球団創設29年目にして初のリーグ優勝を達成したのである。監督就任3年目となる廣岡達朗を中心に、松岡弘安田猛の左右のエース、「小さな大打者若松勉に「月に向かって打つ」大杉勝男、「赤鬼」チャーリー・マニエルを中心とした強力打線が球団の悲願を達成したのである。

8月26日から行われた首位争いを演じていた読売ジャイアンツとの3連戦を2勝1分とし、対巨人戦の勝ち越しを決めた。その後チームの勢いは止まらず9月に入り首位の座に付くとそのままゴールテープを切った。

その8月末、8月31日にある1組のバンドがTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」に出演した。「目立ちたがり屋の芸人です」という一言と共に歌詞の聴き取れない今まで聞いた事もないような歌を披露し、大きな話題を呼んだ。

スワローズの本拠地である神宮球場にほど近い青山学院大学出身であり、神宮の目と鼻の先にある場所にスタジオを持つビクターから「勝手にシンドバッド」でレコードデビューしたバンド、サザンオールスターズである。スワローズが破竹の勢いを見せるのと時を同じくして、一躍スターダムにのし上がったサザンは連日のようにTVに出演することになるのである。

 

スワローズが大きく変わったのには、監督に廣岡が就任したことが最も大きい出来事であった。1974年にコーチとして入閣した廣岡は、2年後の1976年に休養した荒川博の後を受け監督に就任した。「管理野球」とも言われたグラウンド内だけでなく、食事やプライベートと、グラウンド外の行動も監視し、選手を厳しく制限するなどの改革を行った

当然選手から大きな反発があったが、翌年の1977年には球団最高位となる2位に付けるなど、確実にチームは変わりつつあった。

この廣岡の流れはサザンのボーカルである桑田佳祐にも通じるところがあるのではないか。1974年に青山学院大学に入学し、音楽サークルに入り本格的にバンド活動をスタートさせた。様々なバンド名を付けていたが、1976年にはサザンオールスターズの名が生まれ、その後はこのバンド名で定着することになる。1977年にはヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に出場し、本選では入賞・桑田がベストボーカル賞を獲得し、レコードデビューの大きなきっかけとなるなど、どこかと似たような歩みをしているように思えるのである。

そして1978年の8月末、所謂夏の終わりという時期に両者は世間の注目を浴びるようになるのである。

余談であるが、130試合中129試合目にリーグ優勝を決めたスワローズであったが、同時に1つの記録が続いていた。この129試合目までシーズン完封負けがゼロという記録である。しかしシーズン最終戦に完封負けを喫し、記録達成とはならなかった。この完封を記録したのが、広島東洋カープ入団2年目の左腕投手大野豊である。この大野は1955年生まれと桑田らサザンのメンバーと同じ世代の若手であり、この後1998年まで長く活躍をすることになる投手だったのは偶然とはいえ、何か繋がりを感じてしまうのである。

 

リーグ優勝を果たし、迎えた日本シリーズは、パ・リーグ4連覇を果たし、日本シリーズも3連覇中と、当時最強のチームといえた阪急ブレーブスが相手であった。スワローズは本拠地である神宮球場大学野球との日程が重なる関係で使用できず、後楽園球場を使うということもあり、下馬評はスワローズの圧倒的不利という見方であった。しかしその予想を裏切り、シリーズは一進一退の攻防を見せ最終7戦目まで続いた。

10月22日、この7戦目で球史に残る大きな「事件」が起こる。6回裏、スワローズの4番打者大杉勝男の放ったポール際の大きな当たりがホームランと判定された。これを不服として阪急の監督上田利治が抗議を行い、この抗議が1時間19分に及ぶことになるのである。

後楽園球場のポール際の打球。これでもう一つのシーンを思い出す人がいるのではないのだろうか。1959年の所謂天覧試合で読売ジャイアンツ長嶋茂雄阪神タイガース(1959年当時は大阪タイガース)の村山実から放ったサヨナラホームランである。実はプロ入り前村山と上田は関西大学で同級生バッテリーを組んでいた間柄だったのである。そんな2人が後楽園球場のポール際の当たりによって大きく運命を変えることになったのである。

頭の良さ・卓越した野球理論を持ち知将と呼ばれる一方で、退場も厭わない猛抗議を行う熱血・激情家な面を持つ上田がこの時を振り返り「(抗議を終える)引き際を掴めなかった」と語り、一本気で全力投球の姿にどこか悲壮感が漂いザトペック投法と呼ばれ、マウンドで感情をストレートに出した村山が「天皇陛下の前で抗議など出来ない」と悔しさを抑え長嶋がホームに駆け抜ける横を通りベンチへ下がっていったシーンが、両者の一面の1つとはいえどこかイメージの逆な気がするのである。それがまた両者の運命を変える1つになったのかもしれない。

この球史に残るポール際の打球が放たれた2つの試合の日付がまた興味深く、天覧試合が1959年「6月25日」。そしてこの日本シリーズが「1978年」10月22日とサザンのデビュー日である「1978年6月25日」と年と日付が合うのである。勿論所謂こじつけの偶然ではあるが、コミックバンドという見方から、翌年のいとしのエリーのヒットにより正当派のバンド、という捉え方に変化した、というのも、もしかするとポール際の当たりのようにファール(コミックバンド)かホームラン(正当派ロックバンド)か(もしくは逆なのかもしれない)、というほんの少しの違いがその後の運命を変えてしまったことと似ているのかも知れない。

 

話を日本シリーズ第7戦に戻す。3-0とスワローズがリードしたままの8回、大杉に打席が回ってきた。この打席でブレーブスのエース山田久志から左中間スタンドにダメ押しとなる「文句なし」のホームランを打ち込み試合を決定付けた。この大杉の2本目のアーチが、サザンにとっては翌年のシングル「いとしのエリー」のヒットによってコミックバンドから「文句なし」の正当派バンドサザンオールスターズという見方に世間が変わっていった出来事にどこか重なって見えてしまうのである。

大杉の2本のアーチとその行方がサザンオールスターズというバンドの未来にも繋がった、といえば笑い話かもしれない。しかしポール際のホームランと勝手にシンドバッド、それがスワローズに日本一の栄冠をもたらし、サザンオールスターズが一気に世に出る大きなきっかけをもたらした。これだけは確かなのである…。

 

ヤクルトスワローズが日本一を達成した、約1ヶ月後の11月21日、桑田らと同世代である江川卓を巡る大騒動に球界、いや日本中が巻き込まれるのである…。そしてその大騒動の始まりもまた青山であった…。