適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

「44」 ~門田博光と桑田佳祐~

「44」。この数字を見て何を思うだろうか。4(死)が2つ並ぶので不吉、一方で4が重なって4合わせ(幸せ)。またエンジェルナンバーなどとやらいうによると44には「安らぎと穏やかな生活が訪れる」という意味があるそうで、良い・悪いの両方の意味を持つ極端な数字とも言えるのであろうか。もっとも意味なんていくらでも捉えられるものなので、そんなに深いものはないのかもしれないが…。

 

「野球選手としての老衰。」

事実上の引退宣言であった。この年「44」歳となった福岡ダイエーホークス門田博光は記者に向かって話した。この後正式に引退を表明する当時の球界最年長選手は、アキレス腱断裂という大怪我を乗り越え歴代3位となる通算567本のホームランを打った大打者である。

44歳で引退した門田には「44」に因んだ記録がある。1979年、門田は春季キャンプのトレーニング中に右足のアキレス腱を断裂し、このシーズンの殆どを棒に振ることになった。翌1980年門田は背番号を「27」から「44」に変更した。これは門田の母親が亡くなった年齢が44歳であったことから、供養の意味を込めたのと同時に怪我から復活するところ見守って欲しいという想いがあったという(思えば母親が亡くなった年齢と同じ44歳に「老衰」と表して引退するというのが、また不思議な巡り合わせであるが…)。この年自己最多となる40本のホームランを打ち、門田は「復活」、いや真のホームランバッターへと「進化」した。更に1981年には背番号と同じ44本のホームランを記録するなど、負傷した右足に不安を抱えながらもBクラスに低迷するチームの主砲として活躍を見せた。

1988年、40歳となったシーズンであったが門田は40歳とは思えないペースでホームランを量産していた。そんな門田の活躍はメディアに大きく取り上げられるようになり、「中年の星」・「不惑の大砲」などと呼ばれ、より注目されるようになった。このシーズン自己最多タイとなる44本のホームランを打ち、ホームランと打点の二冠王に輝いた。チームは5位となるもMVPを受賞するなどの大活躍であった。

しかしこの年を最後に南海はホークスをダイエーに売却することになった。同時に大阪から福岡へ本拠地を移転することになったのである。門田は家庭を優先し、単身赴任を避けたいことから福岡行きを拒否した。そして関西に本拠地を置き、同じく球団の身売りを発表し、親会社が阪急からオリックスに代わったブレーブスへトレードで移籍することになったのである。

結果的に「44」本のホームランを置き土産に「南海」ホークス最後のスターはチームを去ることになったのである。

 

1990年の夏、サザンオールスターズ桑田佳祐が映画監督を務めた「稲村ジェーン」が公開された。映画のプロモーションを兼ね、多くのテレビ番組にゲスト出演していたが、その1つに「プロ野球ニュース」があった。

桑田は好きだという落合博満(当時中日ドラゴンズ所属)の話を主にしていたが、この時番組のMVP、「MIP(Most Impressive Play)」を選ぶというコーナーがあり、その中では桑田は元広島東洋カープ山本浩二と並ぶ通算536本目のホームランを放った門田をMIPに選んでいるのである。曰く「門田さんが好き」らしく、電車で球場に通っているなどのエピソードを知っていた。

 

それから10年が経った(そういえば映画「稲村ジェーン」で挿入歌として作られた「忘れられたBIG WAVE」は「あれから10年も~」という歌い出しで始まる)、2000年1月26日、桑田の誕生日を1ヶ月後に控えた中、サザンオールスターズは1枚のシングルCDをリリースした。

TSUNAMI」である。

このTSUNAMIが大ヒットしたのである。1997年以降サザンはシングルの売り上げでは苦戦を強いられていた(それでも常にオリコンの10位以内にはランクインされていたのだが)。そんな状況の中で300万枚近い売り上げを記録するなど、TSUNAMI、そしてサザンは社会現象になったのである。このTSUNAMIはサザンのシングルとしては44枚目であり、またそのリリース後、誕生日を迎えた桑田は44歳になった。さらに年末の第42回日本レコード大賞TSUNAMIは大賞を受賞する(42、といえばプロ野球ニュースで門田をMIPに選んだ時門田の年齢も42歳だった、というのは流石にこじつけが過ぎるか)。

レコード大賞を受賞した桑田は「(美空)ひばりさんの背中が見えました」とコメントしている。

門田は最終的に通算で567本のホームランを打っている。これは歴代3位の記録であり、2位は657本の野村克也である。野村は門田が南海ホークスに入団した時の監督であり、同時に選手兼任の四番打者でもあった。野村は門田にとって愛憎相半ばする存在ではあるのだが、(これはまた別の大きな物語であるのでここでは深く触れない)ホームランの歴代記録から見れば、最終的に門田もまた「野村の背中が見える」位置にいる、といえるのである。

門田も桑田もどこかでその見えている背中を追い抜こうとしていた(いる)のかもしれない(門田は超えるつもりだったのだろう)。今現在、門田と桑田の背中が見える、または追い抜こうとするような存在はどれだけいるのだろうか…(そもそも人の背中を見る時代ではないのかもしれないが…)。

 

1992年、門田は引退する。最後はダイエーとなり福岡へ移転したホークスへ「復帰」しての引退であった。

2000年、桑田は故郷・茅ヶ崎で凱旋ライブを行った。茅ヶ崎でのライブは19年ぶりとなった。

「44」歳の2人はホークスと茅ヶ崎、という故郷に戻ったのである(厳密に言えば門田は前年の1991年に復帰しているのだが)。

門田はホークスの本拠地であった平和台球場引退試合を行っている。翌年の福岡ドーム移転により、この試合は平和台球場プロ野球公式戦ラストゲームでもあった。不思議なことに門田はチームを去る時が来ると何かと共に去って行くのである。この平和台球場もそうであるし、最初の移籍は南海電鉄のホークス身売りによる本拠地移転の為の移籍だった。そしてオリックスからダイエーへ移籍の際も阪急時代からのチーム名であったブレーブスが翌年からブルーウェーブに変わるというタイミングであり(同時に本拠地の移転も行っている)、門田は「南海」と「ブレーブス」と共に去ったという形になっているのは偶然だろうか。これは昭和から平成に時代が移る中で、昭和末期最後のプロ野球スターは平成のプロ野球を生きつつある種のおくりびととしての役割を背負わされていたのかもしれない。

茅ヶ崎ライブを終えた後、しばらくしてサザンのギター担当であった大森隆志が休養を発表した。メンバーの休養は今までもあったが決定的な違いは、翌年大森はサザンを脱退した、ということである。以後サザンはギターにサポートメンバーを入れ、5人組として活動を続けていくことになる。(大森が休養中という形で2000年の末には年越しライブを行っているとはいえ)茅ヶ崎ライブは6人サザンとして実質最後のライブでもあったのである。桑田自身は去らなかったが、大森は去った。「44」本のホームランを打った門田、そして「44」歳で引退した門田も、大ヒットを記録した「44」枚目のシングルで最も注目される1年を過ごした「44」歳の桑田もその影では失うものがあった、といえるのは負の意味としての「44」も同時に背負っていたのかもしれない。

 

昭和の最後である1988年、20世紀の最後である2000年、門田と桑田は「44」という数字がもたらした輝きを見せた。

門田は1948年、桑田は1956年生まれで8歳差である。「44」…。「4+4=8」、というのもまた偶然なのか、運命なのか、単なるこじつけなのか…。ただこの「44」という数字に縁のある二人なのは確かなのだろう。

 

「44」という共通点があるとはいえ、そもそも何故対比させたのが門田博光桑田佳祐だったのか、と…?。だって「2月26日にはささやかな二人の絆」(サザンオールスターズ「素顔で踊らせて」)と桑田は歌っているのだから。