適当文集

140文字でも書けそうな事を引き延ばして雑に書くところ

1994年の長嶋茂雄と桑田佳祐

1994年10月8日、野球ファン…いや日本中の注目を集めるプロ野球の試合が行なわれていた…。愛知のナゴヤ球場での中日ドラゴンズ読売ジャイアンツのシーズン最終戦である。両チームとも69勝60敗という全く同じ成績で並んでおりこの試合に勝ったチームがセリーグ優勝という1戦になっていたのである。この1戦を「国民的行事」と呼んだのは、当時ジャイアンツの監督を務めていた長嶋茂雄であった…。

時を同じくして福岡である1人の歌手のライブが始まろうとしていた…。この年サザンオールスターズの活動を休止し、ソロ活動を行なっていた桑田佳祐である。

今回はそんな両者の1994年に焦点を当てていきたい。

 

1993年、12年ぶりに長嶋茂雄読売ジャイアンツの監督に復帰し、期待されたシーズンであったが、ペナントレースは3位に終わってしまった。また64勝66敗1分と勝率も5割を切ってしまった(これは1979年以来のことでありこの時の監督もまた長嶋であった…)。

そこでシーズンオフ1つの大きな補強を行なった。この年導入された一定の資格を満たした選手が他球団と交渉を行なうことの出来るフリーエージェント制度により、所謂FA宣言をしていた中日ドラゴンズ落合博満の獲得である。首位打者・ホームラン王・打点王を各5回、三冠王を3回獲得した大打者であった。一方で「オレ流」と自らを評し、周りからもそう呼ばれていることもあるようにマイペースで気難しい一匹狼と言えるような一面も持っていた。一説によれば球団内部からは獲得に反対の声が多かったが長嶋が押し切り獲得した…とのことである。落合の著書によれば長嶋は「巨人の選手達に戦う姿勢を植え付けてくれ」という注文をしたという。落合は「オレ流」と呼ばれる一方で、親分肌な一面も持ち合わせており後輩の選手達から慕われていた。その影響力を長嶋が今のジャイアンツに最も必要であると1年の戦いを経て痛切に感じていたのだろう。と同時に1000日計画で四番打者として育て上げると長嶋の監督復帰と共に入団した松井秀喜への「最高のお手本」として獲得したという側面があったのかも知れない…。

 

桑田佳祐はサザンの活動の中(現在のようにサザンの活動休止→ソロ活動という流れでは無かった)1993年10月に5年ぶりとなる個人名義でのシングルCDを発売した「真夜中のダンディー」である。今までのサザン・ソロ曲にはほとんど無かったリアルな年齢感(当時の桑田は37歳)を生々しく切り取った(のちに自らの著書で「年齢的に枯れていく自分というのを意識し始めていた」と記している)ような楽曲であった。

それまでのサザンのイメージである「夏」や「楽しいステージ」、87~88年のソロ活動のテーマでもあった「ポップス」という部分からは遠いところにいるような、当時としては「浮いた」存在だったのかもしれない。

そんな曲ではあったが桑田佳祐名義のシングルCDでは初めてオリコンの1位を獲得している。結果的にこのヒットによって翌年の活動方向が定まったのかもしれない。

 

今ではその所謂その「個性」がファンの中で認知されているように思うが、落合博満真夜中のダンディーは当時のチームの中・楽曲の中でどこか「一匹狼」や「劇薬」と言えるような存在だったのかもしれない…。

1993年末に新たに加わったそれぞれが翌1994年の出来事の「核」となったのでは無いのだろうか…。

 

1994年の開幕戦、ジャイアンツは11対0で快勝した。この試合四番で出場した落合は早速ホームランを打った。前の三番に座った松井も2本ホームランを打ち、最高の形でシーズンのスタートを切った。この開幕戦の勢いそのままに4月の終わりには早くも首位に立っていた。その後も首位の座をキープし独走態勢に入りつつあった。

前年は野手陣の怪我や衰えによる世代交代の時期に差し掛かっていたこともあり中軸を固定できなかったが、「三番・松井秀喜」「四番・落合博満」と不動の三・四番コンビが軸になったことで安定した戦いを行なうことが出来たのも大きな要因の1つだった。

また5月には福岡で槙原寬己が史上15人目の完全試合を達成したこともチームの勢いに繋がった。

6月終了時には42勝22敗という成績で貯金20と首位を独走し、早くも優勝は確実という声があったほどである。

 

桑田は6年ぶりとなるソロ名義のアルバム制作に取りかかっていた。一方で親交のある泉谷しげる森雪之丞のライブに飛び入り出演するなど、サザンの枠に囚われない活動も行なっていた。

8月にはアルバムからの先行シングルとなる「月」を発売した。それまでの桑田作品とは違ったある種の静寂感のあるこの情緒的な曲は、桑田本人のお気に入りとなったこともあり、後にライブでは頻繁に演奏される曲となるが、特にこの1994年にはアルバム・そしてライブツアーにおいて真夜中のダンディーと同じく核となる曲となってゆく…。

そして9月アルバム「孤独の太陽」が発売された。アコースティックサウンドを前面に出したシンプルなアレンジの曲が並び、歌詞も内面の悲しみや苦悩、怒りといった感情を表したような世界観が多く、今までの桑田(サザン)のイメージが「明」であれば間違いなく逆の「暗」の世界へ振り切った作品となっている。

このアルバムと共に9月29日からライブツアーが始まることになる…。

 

首位を独走していたジャイアンツであったが、7月に入るとシーズン初の5連敗を喫するなどチームはシーズン当初の勢いを失い始めていた。6月までと比べて打線が湿りがちになっていたことが影響してしまった。この連敗が響き7月はこの年初めての負け越しとなってしまった。しかしこの時点では2位とのゲーム差は十分離れており、1度優勝マジックが点灯していたほどである。だがこの負の流れを断ち切ることが出来ない。なんと8月9月も負け越してしまう。最大「20」あった勝ち越しは9月終了時点で「7」にまで減ってしまったのである。この間に差を縮めてきたのが中日ドラゴンズであった。8月までは勝率5割ラインで2~3位が定位置となっていたのだが、ジャイアンツの失速と9月には(10月を跨いだ9連勝を含む)11勝4敗と大きく勝ち越し、9月28日には直接対決に勝利したことにより125試合目にして66勝59敗と全く同じ成績でついに並んだのである。残り4試合も両チーム共に3勝1敗の成績で、69勝60敗と同じ成績で並んだまま、勝った方が優勝という最終戦にまでもつれ込んでしまった。

そしてついに10月8日ドラゴンズの本拠地であるナゴヤ球場の試合は日本プロ野球初の同率首位のチームによる優勝決定戦となったのである。

 

アルバム発売後桑田はある騒動の当事者となってしまう。アルバムに収録され、後にシングル「祭りのあと」B面曲としてシングルカットされた「すべての歌に懺悔しな!!」という曲の歌詞の内容について矢沢永吉長渕剛の2人を指しているのではないのか、という旨の記事が週刊誌等で騒がれ始めた。桑田は会見を開き否定と謝罪を行なったものの、長渕はインタビューで反論し、桑田vs長渕という構図でファンや音楽評論家を巻き込んだマスコミによる報道が翌年長渕の逮捕で収まるという形で連日行なわれた。

この騒動の影響か既にスタートしていたライブツアーでは演奏されていた「すべての歌に懺悔しな!!」であったが、これ以後封印扱いされてしまうこととなる(現在も発売等されてはいる)。

騒動の余波が残る中桑田は全国30ヵ所35本のツアーに旅立って行く…。

 

10月8日ナゴヤ球場で行なわれた一戦、後に「10.8決戦」と名付けられた試合であったが、序盤こそ両チームとも優勝決定戦という緊張からかエラーなどのミスが相次いだが、ジャイアンツがペースを掴むと、終始そのペースを維持し6-3というスコアでジャイアンツが勝利し、セリーグ優勝を決めた。ジャイアンツとしては1990年以来4年ぶり、長嶋にとっては第1次監督時代の1976年以来実に18年ぶりの優勝の美酒であった。

長嶋はこの試合で先発三本柱である、槙原寬己・斎藤雅樹桑田真澄の3人を投入という思い切った采配を行なった。一方でドラゴンズの監督であった高木守道は先発にエース今中慎二を立てつつもリードを許した後は、エース級であった山本昌郭源治という投手を投げさせること無く、普段のシーズンと同じ投手起用を行なった。この投手起用の差が明暗を分けたと後に言われることもあったが、普段先発の投手を中継ぎに起用するのにも当然リスクもあり、普段通りの起用であれば選手も出番が分かりやすく準備がしやすいという利点もあるためどちらが正しいとは一概には言えないが、結果的には長嶋の采配が的中した形となった。

この試合に負けることがあれば引退、と胸に秘めていたという落合は3回裏に負傷退場となるまで、2回に先制点となるホームラン、同点に追いつかれた3回に勝ち越しとなるタイムリーヒットを放つなどの活躍を見せた。また5回には松井にもホームランが出た。これがシーズン20本目と区切りのアーチとなった。

ちなみにジャイアンツは並ばれたとは言え1度も首位の座を譲っていないのである。故に一部では長嶋茂雄による自作自演、などとも言われることがある。まあ盛り上げて最後の最後最終戦で優勝を決めた、というのは何とも長嶋らしく、また長嶋だからこそ、ともなってしまうのであるが…。

そしてこの日にライブを終えた桑田はテレビでこの試合の様子をチラッとだけ見た後に別室へ移動してしまった。バンドメンバーやスタッフの面々は引き続きテレビで試合を見守り、ジャイアンツが優勝した瞬間、歓声が上がっていた。

別室にいた桑田にスタッフが試合の結果を伝えると一言呟くように「つまんねーな」と返していた。

桑田は自らの著書に「アンチ巨人」と記したこともあったため、単にジャイアンツが優勝したことを指しているようにも思えるが、あまりにも前述した長嶋の自作自演のシナリオ通りに進んでしまったことに対する苦笑いにも似た感情、もしくはかつてONのものまねを披露したことがある・長嶋の引退時に思わず涙した…、というエピソードもあるほど長嶋、ONは少年時代のヒーローだったとも述べており、1980年シーズン終了後、長嶋の辞任という名の「解任」で最初の監督生活を終えているということは桑田の世代の中では特にそれが「事実」として知れ渡っているはずなので、自らを切り捨てるように解任したチームに戻り優勝した事への複雑な感情が表れているのではないのだろうか…。

まあ単にもしかするとちょうど曲の騒動の件が巻き起こり始めた頃でそれどころでは無かっただけなのかもしれないが…。

後に長嶋のことを歌った「栄光の男」という曲を桑田は作ることになるが、それには19年の時が流れることとなる…。

 

この1994年、長嶋茂雄桑田佳祐の2人にはもう1つの大きな出来事が起こっていた。母親が亡くなったのである。

長嶋の母は7月に92歳で亡くなった。7月と言えばこのシーズンで初めてジャイアンツが負け越した月である。遠征先であったが母親が亡くなったことを選手や関係者に告げることなく監督として指揮を執った。長嶋自身は「勝負の世界に入ればプライベートはない」という姿勢であったが、この出来事が長嶋の所謂「動物的カン」を鈍らせ、失速に繋がってしまったのではないのだろうか。

時は1957年に遡る。当時立教大学の4年生で六大学野球のスターとして様々な球団が長嶋の獲得を狙っていた。その中で南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)入りが確実と言われていたのだが、最後になって一転ジャイアンツ入団が決定した。この決断の裏には母の存在があったという。母の希望は「関東から離れて欲しくない」ということだった。母にとって長嶋は末っ子であり、自分の手から離したくないという思いがあったようである。長嶋自身も父が大学1年次に亡くなった後も女手一つで大学卒業まで支えてくれた母への強い思いもありその願いを断ることが出来なかったのである。

それほど母親に愛され愛した長嶋にとって無意識のうちに母親の死が監督としての采配に僅かな綻びが生まれていたのかも知れない…。

 

桑田の母は2月に60歳で亡くなっている。心筋梗塞だったという。

この時、ちょうど桑田のソロアルバム制作の時期だった。後に桑田は悲しいから悲しい曲を作るわけではないが、音楽をやっている以上はそうした巡り合わせから生まれ出た心境も、曲のどこかに現れたと思うと後に述べているように、曲の間からその影響が受けたであろう空気を感じることが出来る。

桑田が母を送る歌、と語った「JOURNEY」という曲がある。その歌詞の中にこんな一節がある。「寂しくて口ずさむ歌がある 名も知らぬ歌だけど 希望に胸が鳴る」

そして思わぬ騒動の発端になった「すべての歌に懺悔しな!!」であるが、今思うにこの曲は寂しくて口ずさむ名も知らぬ歌に対しての「懺悔」だったのではないのだろうか。歌が得意で世渡り上手な自分が上手いことスーパースターとなり世界は自分を中心に回っている、と思っていた時にふとしたきっかけで立ち止まり、不意に口ずさんだ歌で幼き時代と今の自分を振り返り、急に襲ってきた悲しみとそれまでの自分という「虚構」を自分の含めたミュージシャンの印象を含め、詞に落としたのではなかったのだろうか。そんな架空の人物を作り上げたつもりが当時の心境が影響したのか、様々な「リアル」強く浮き出てしまった結果があの騒動だったのかもしれない。

そして「すべての歌に懺悔しな!!」がシングルカットされた際のA面曲である「祭りのあと」にもこのような一節がある。「悲しみの果てに 覚えた歌もある」

この曲は桑田の十八番といっていいような所謂情けない男の歌であるが、とらえ方次第ではこの曲も母を想う歌にもなるのかもしれない。この3曲は何処かで繋がっていたりするのだろうか…。

思えば「すべての歌に懺悔しな!!」この2つの「歌」のため、そして自分自身が全てを受け入れ、前に進むために必要な曲だったのではないのだろうか…。

 

ジャイアンツは西武ライオンズとの日本シリーズも4勝2敗で勝利し日本一に輝いた。監督・長嶋茂雄として初めての日本一でもあった。

桑田は途中母校である青山学院大学でのライブ、AAAのライブにサザンとして参加という活動を経て、最終公演となった横浜アリーナでの年越しライブでツアーは無事に幕を閉じた。

翌1995年桑田はマンピーのG★SPOTで2年ぶりにサザンとして本格的な活動を再開した。一方長嶋は日本一の達成直後であったがFA宣言していたヤクルトスワローズ広澤克実広島東洋カープ川口和久を獲得、更にスワローズを自由契約となっていた外国人選手ジャック・ハウエルも補強している。

この95年以降、桑田のイメージは夏・下ネタが好きなおじさん、長嶋は天然で毎年のように補強を繰り返すことから欲しがり病と揶揄されるようなキャラクターが定着することになるが、もしかすると94年に自らの内面の1部ともいえる姿を見せたことにより、意図してそのような仮面を被っていたのかもしれない…。

そういった意味でこの1994年は国民的と呼ばれることのある2人の「素顔」を垣間見ることの出来た最後の年だった、といえるのではないであろうか…。

 

 

長めのあとがきのようなもの

さてさて自分の好きなものを都合良く解釈して無理矢理繋げようとした雑文シリーズでございました。

2000年の長嶋茂雄サザンオールスターズの続編というか序章的なものになって…いませんね…。がっかりよ(?)。

ここまでサザンを主にジャイアンツ関係の選手と繋げていますが、偶然です…w。一応次はこの年かな…と考えているのは別なチーム(の選手)なので書くかは分かりませんがアンチ巨人の方はご安心を(?)。

当初は長嶋茂雄(2月20日)と桑田佳祐(2月26日)2人の誕生日の間の2月23日までに仕上げたかったのですが、間に合いませんでした…。せめて桑田さんの誕生日までは…と気合いを入れたので(当社比)締め切りは大事だなと思いました(?)。

個人的に自分が読みたいシリーズでもあるので万が一野球とサザンの両方が好きな方がいましたら是非よろしくお願いします(?)。